
築地市場は、関東大震災で壊滅的な打撃を受けた日本橋付近にあった
魚市場の仮営業所として開場しました。
昭和10年正式に移転が認められ、現在まで80有余年、この間戦争の爆撃
にも合わず、(近くに聖ロカ病院や明石町に外国人の居留地があったため)
開場当時の建物が、多く残されています。
築地市場は、面積が23㌶、鮮魚売り場の仲卸店が600店舗前後、(最盛期
には千店舗以上)一日の来場者4万2千人と、まさに日本の台所です。
平成17年石原都政の時、建物の老朽化とトラック輸送が主になり交通渋滞
改善のため、そして吹き曝しに市場がある衛生面の問題等で、豊洲移転を
決定しました。
8月31日の時点で、小池都知事が11月7日の移転が延期されました。
豊洲の土壌汚染が解決されず、不透明な金銭問題が主な原因とされますが
来年度の閑散期には、移転となると思われます。
ここでは、築地市場ならではの、従事者や関係者の知恵を紹介します。
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築地市場で一日取り扱われる水産物は、1800㌧
前後で、その内まぐろは、ぶりやいか、あじや鮭と
並んで取扱量が多く、主力商品です。
特にまぐろの競りは、日本の近海物以外に全世界
から運び込まれる鮮魚や冷凍品が、競り場室に
並び、競り人の威勢良く独特の符丁で、次々に
仲買人に、まぐろが競り落とされていきます。
1月5日に行われる初競りは、ニュースになり
平成24年には、最高値5640万円。25年には、
1億5440万円と天井知らずとなりました。
中国の業者と競り合ったからとされ、翌年から
最高値736万円と落ち着きを取り戻しました。
近年は、海外からの観光客が多く、まぐろの競り
見学は、人気の的で、午前5時からの先着順
120人とし60人2回に分かれて見学します。
また、場内市場見学は、原則午前10時からです。
まぐろ等から出るあら(頭や骨、尾)は、飼料として
再利用されるため、頻繁に回収されます。
他の魚のあらも適切に処理するため、ハエが
いない市場として七不思議の一つになっています。
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築地の土地の守り神は「波除神社」で、
市場内の守り 神は、「魚河岸水神社」
遙拝所は、場内市場内にあり、豊洲移転と
共に移動するという不思議な形が訪れます。
もともと魚河岸水神社は、築地以前の日本橋
魚市場内にもあり、大漁と海上安全の祈願
から祭ったのが始まりで、本殿は神田明神に
置かれています。
豊洲の土地の守り神は、富岡八幡宮ですが、
「市場の人が、他の守り神を信仰するのは、
構わない」との立場で、この不思議な関係は
続きます。
波除神社のお祭りの神輿は、獅子頭で
獅子祭りと呼ばれています。
来年以降も築地のより発展を祈願して、より
盛大に執り行うそうです。
また、波除神社には、生類を殺生して商いを
するため、各塚(すし塚や鮟鱇塚,海老塚等)
を置き、霊を祀っています。
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日本橋にあった魚市場が、築地に移転したのは、
関東大震災で壊滅的な打撃を受けた事が、
大きな理由ですが、江戸時代から日本橋界隈に
移り住む人が多くなり、魚市場の悪臭に苦情が
多く寄せられたからです。
築地地区は、広大な土地があり、なりより当時物流
の主流だった貨物輸送と水運輸送に適した場所
でした。 貨物輸送は、汐留貨物駅から引き込み線
で、東京市場線が1931年に開通し全国から塩蔵や
干し物に加工された魚介類や練り製品、野菜や
根菜類が次々と築地市場に運ばれてきました。
築地市場が扇型の形状をしているのは、効率良く
貨物の積み下ろしをするためです。
現在でも市場には、駅舎の名残りが見て取れ、市場
の近くには、浜離宮踏切が永久保存されています。
隅田川河口付近にある築地市場は、漁港でもあり
鮮魚も数多く水揚げされていました。
現在でも江戸前の穴子は、直接取引しています。
高度経済成長をへて、高速道路が整備され、
物流の主力はトラック便等、陸送が中心となり
1987年、東京市場線は、廃線になりました。
現在では、冷蔵や冷凍技術、活魚輸送技術等が、
格段と進歩し、全国各地の鮮魚が毎日築地に
運ばれ、市場に所狭しと並んでいます。
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海水
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海港橋と築地橋
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海港橋
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