有限会社 寿司清

魚の旬と産地にこだわり、刺身寿司はもちろん焼物煮物揚物など、その旨さを存分に味わってください。

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失くしたくない風景

 

    
           カスケード工房  白石壽男さん  


    
     
     
     お店で使う冷酒グラスは、白石さんの作品です。
     白石さんは、色被せガラスの表面に砂を吹きつけて彫刻する、サンドブラスト
     技法を使い、様式はアールヌーボーを基調としているので、日本の草花を
     モチーフにしたデザインが施されています。
     作品は、表面と裏面にも彫刻され、立体感と陰影まさに3Dを世界が広がり、
     ランプ等中から照明をあてる作品は、傑出です。
     作品は、北海道小樽の北一硝子で展示、販売されています。

     白石さんのご希望で連絡先は、非公開とさせていただきます。

     
  
      

千歳通り(品川用水跡)

 
           千歳船橋駅前のシンボルツリー「柳」




    左の写真は、昭和31年当店が創業した頃の千歳船橋駅で、小田急が高架事業が
    始るまで、この位置でこの大きさのこじんまりとした駅舎でした。

    右の画像は、昭和38年頃千歳船橋の駅に向かう人々で、右は踏切で隣に柳があります。
    この後柳の隣に派出所、小田急の売店ができました。
    この柳は、踏切拡張工事で伐採されましたが、通りを挟んで右側にある柳は、現在の鎌倉
    パスタさんの前に当たり、2006年から始まった高架工事まであり、残すことも考慮され
    ましたが、痛みが激しく惜しまれつつも伐採されました。

    チトフナに古くからお住まいの方には、駅前に二本並んだ柳は、シンボルツリーとして
    懐かしく思い出されると思います。
     

千歳通り(品川用水跡)

 

千歳通り(品川用水跡)と石積み

品川用水は、玉川上水から品川地区への生活用水路として造られ、前身は1662年に造られた戸越上水と記録があります。
昭和7年にその役目を終えるまで、大切な水を供給し続けました。
戦後から埋め立て工事が始まり、昭和27年に完了し、その跡に千歳通りが拡張されています。
環状8号線と千歳通りの交差点から船橋に入り、(画像上左)この辺りに、稗柄橋の坂があリ、船橋から廻沢方面に行くには大変な難所で、船橋では一番急な坂道と言われています。 現在では、千歳通りと交差する水道道路が環八までの坂道に名残があります。

小田急線との交差を潜り(画像右上)、笹原小学校の脇を通過し、突き当りを左に曲がると石積みの風景が見えます。
この石積みは、品川用水の名残で、用水に土砂が流れ込まないようにと、斜面に作られたそうで、現在では周囲の景色と溶け込み、後から作られた石積みもあります。
用水は、水の流れを確保するために、高台の地形を上手く利用して作られ、雨などで水路が築堤から溢れないように、水の逃げ道を作りました。(画像左下)用水から地形の低い城山通りに下る水路跡が、今も残ります。
この辺りは桜並木が繋がり、桜の季節には、それは見事な景観です。(画像右下)
用水路の名残、石積みと桜のトンネルは、失くしたくない景色です。

 

宝性寺 (船橋4-40)

宝性寺 (船橋4-40)

 

ちとふなの宝性寺とは

宝性寺は、室町時代末期(1592年)に、多摩郡船橋村(現在地)に設立されたと記録があり、長年祈願寺として領主から加護されていました。
その後ご加護を失い、寺は荒廃してしまいましたが、昭和33年、先代のご住職龍憲師の大変なご努力によって復興がなり、檀家さん、ご信者さんの浄財を得て、現在は古刹にふさわしく、静寂の中にも凛とした体裁を整えています。

画像左上は、宝性寺の正面。 画像左下は、境内に咲く見事な桜で、他にも四季折々の花が咲き、訪れる人々の心を癒してくれます。
画像右下は、立派な鐘付き堂で、大晦日にはご近所の皆さんが、除夜の鐘を突きに並びます。
年が明け、山門におめでたい門松が飾られます。画像右上。

 

船橋神明神社 (船橋4-40)

船橋神明神社 (船橋4-40)

 

船橋神明神社は、ちとふなの鎮守様で古くからある石の鳥居には、天保10年(1839年)設立とあるので、神社の創建の古さを伺えます。
画像下は、石鳥居が参道の入り口にあった頃で、現在は新しい鳥居が建立されています。
画像上は、宵祭りに境内で執り行われる、御霊写しの祭事の模様です。

御祭神は天照皇大神で、参道の並ぶ黒松が鎮守の杜として、船橋の人々に大切に守られてきた思いと、神明様の風情も
感じられます。
現在は、敷地内に遊戯もあり、子供達の遊び場にもなっています。
平成2年3月に過激派の手によって、全焼されましたが、翌年社殿は新造されました。

森繁通り 今昔

森繁通り 今昔

 

森繁通り

森繁通りは、森繁久彌氏のお屋敷跡(現マンション)前から小田急線高架に突き当たりまでで、昔はこの場所に踏切がありました。
その並びに喜楽食堂さん(現船橋1-9に移店)が、
昭和36年に開店し、当時は近くのサラリーマンにとっての憩いの場所でした。

寿司清は、昭和31年創業で、その当時から今も続くお店は、中杉こんにゃく店と松原クリーニング店だけとなりました。
中杉こんにゃく店の並びに(現サボテン)勧業銀行(現みずほ銀 桜ヶ丘2に移転 )があり、当時は勧銀通りと呼ばれていました。
昭和20年半ばに船橋湯が開業し(現マンション)
当時、ご家庭には内風呂がほとんどなく、みんなが利用した、船橋の社交場でした。
開業当時の面影をそのまま残すたたずまいで、撮影にも利用されていました。

右上の古い写真は、昭和40年代初めの千歳通りが、小田急線を潜り抜ける工事です。
それまでは踏切があり、駅員の詰め所もありました。

写真の提供やお話を聞かせてくださった方々、有難うございました。

 

天祖神社 (経堂4-33)

天祖神社 (経堂4-33)  

神社の回りは宅地化が進み、ここだけが時間が止まったように木々が鬱蒼と生い茂り、昔と変わらない風景を残しています。
祭神は天照皇大神、倉稲魂命、創立年代は不明ですが、地元の伝承では永正四年(1507年)の鎮座とされ、当時は伊勢の宮と称し明治になり天祖神社と改称しました。

昭和51年に社殿と社務所の復興が完成し、経堂の総鎮守として風格と歴史の重みが感じられます。

 

上毛学舎 (経堂4-8-13)

上毛学舎 (経堂4-8-13)

 

小田急線千歳船橋駅前の城山通りを経堂方面に進むと、コンクリート塀の向こう側にあるのが上毛学舎です。
正式には、(財)群馬育英会上毛学舎で、設立は昭和3年7月。新宿区から移転され、前身は東京宿舎と呼ばれ、群馬県出身の学生寮です。

千歳船橋駅は昭和2年4月1日開業なのでチトフナの歴史と共にあると言えます。
当時は、稲荷森神社の深い森が広がり、品川用水から下る水路や湧水池がある、のどかな場所だったそうです。
昭和30年、隣や城山通りを挟んで、千歳船橋住宅が建設されてから、神社を中心にお店が立ち並び現在の賑やかな商店街が誕生しました。

学舎の老朽化に伴い、立替工事と敷地内にマンション建設が今年12月頃から着工予定されています。
敷地内には、見事な桜が並びできれば残してほしいです。

 

農作物販売所

農作物販売所

 

千歳船橋は、ここ数年宅地化が進み、あちこちでマンションや住宅が立ち並び、建設予定地も沢山あります。
子供の頃遊んだ、雑木林や竹薮また川や池、野原や畑も整備され、自然がなくなりつつあるのは寂しい気がします。

船橋には、まだ住宅の合い間に畑が残り、生産緑地の看板が立てられています。
写真は、千歳台にある農作物の販売所で、ちょうど収穫物を持ち込んできたもんぺ姿に頬被りのご婦人と居合わせ、撮影させてもらいました。
この辺りは、むかし廻沢と呼ばれ、一面畑と野原でしたが、今ではきれいに区画整備されています。

 

りんご園

りんご園

 

環八に面した、千歳台4丁目付近の畑の持ち主内海博之さんが、何か地域の人々に貢献出来ないかと考えたのが、りんごの観光農園です。
内海ご夫妻が、ご苦労の連続でりんごの栽培技術を習得し、1998年より開園。
20㌃の土地に、富士、津軽や陽光等の品種を栽培し、今や家族連れで楽しめる人気スポットになっています。
9月から11月上旬まで、毎週日曜日10時から開園しています。

撮影に訪れた時、奥様が気さくにりんごを剥いてくれ、いただきました。
これが本当に美味しい、東京のりんごとして船橋名物で売り出せます。

 

実生ゆず

実生ゆず

 

船橋4丁目の大塚氏の庭先に、実生柚子の木が植えられています。
この木は樹齢40年近くたつそうで、根元付近に150年たつ親木の切り株があります。
柚子は、本来大きく成長し、枝に鋭い棘があるので、同じ柑橘類の木に接木し、木を低くして果実を、収穫し易いようにしています。

実生(接木していない)柚子は、フルーツの様な甘い香りがします。この柚子皮を細く切り砂糖漬けにすると、昔ながらの懐かしい、お茶請けが出来上がります。

 

竹林

竹林

 

実生柚子が植えられている大塚氏の敷地に、竹林があります。
昔は、船橋のあちこちで竹林や竹藪がありましたが、今ではこちらと水道通りに面した内海農園内と、二箇所にだけになってしまいました。
船橋は昔、筍の名産地だったそうで、収穫期には良質の筍が多く採れ、近くの松原市場はもとより、遠く目黒や神田市場にまで運んだそうです。

残念ながら、この竹林も来年宅地化される事が、決まったそうです。

 

船橋観音堂 (船橋1-20)

船橋観音堂 (船橋1-20)

 

このお堂は、昭和11年に改築したもので建坪9坪あり、本尊は観世音菩薩坐像で、安置されている厨子の両扉には、足利時代の世田谷城主吉良氏の紋章が刻まれている事から、吉良家より寄進の仏像と言われています。

隣接する共同墓地は、鈴木一族(吉良家家臣?)や同族代々の供養のために建てられ、中には1650年代のお墓があり船橋で一番古い墓地です。
昭和28年から国有地となり、昭和51年に改修され、お堂とお墓は、別々に管理されています。
お堂の周りの、鬱蒼とした木々が伐採され、随分と見通しの良い明るい環境になりました。

 

桜願観音 (船橋4-14)

桜願観音 (船橋4-14)  

希望が丘小学校の裏手に小さな祠があり、朱塗りの鳥居をくぐって階段を上がると、観音様が祀られています。
この辺りは昔小高い丘で、観音堂は、小学校が出来る時に平らに整地する予定でした。
なくなるならばと近くの花屋さんが、観音様の周りのさかきを採ってしまい、それが原因なのか(祟りか?)その後急死してしまったので、その方をご供養するために観音様とその周りを残したそうです。

観音堂の下には烏山川の支流が流れ、近くの本村公園辺りにきれいな湧き水が多数吹き出し、子供達の格好の遊び場だったそうで、今でも公園から水道道路に抜ける道は蛇行しており、昔烏山川の支流だった名残りが覗えます。

 

桜丘すみれば自然庭園 (世.桜丘4-23)

桜丘すみれば自然庭園 (世.桜丘4-23)  

武蔵野の風景を再現するという、故植村傳助氏の構想で昭和初期につくられ、ご家族が守り育ててきた庭園で、平成15年に世田谷トラストが、区から管理を委託されました。
この庭園は、私たちと生き物たちのオアシスをモットーとし、そのための育てる(手入れを行う)、調べる(生きものの調査)、見守る(自然との付き合い方)三つの方針があります。

庭園には、解説委員が常駐して、いつも来園者にわかりやすく説明してくれています。
写真左はアサザ池、トンボ池。右側は庭園のシンボル、スミレが咲く庭です。

 

経堂五丁目 特別保護区 (経堂5-12)

経堂五丁目 特別保護区 (経堂5-12)  

世田谷区は、そのまま放置しておくと宅地化などで失われてしまう緑豊かな場所を、区の条例で特別保護区に指定して、環境保全に力を注いでいます。
現在、ここの他に烏山弁天池と神明の森みつ池、奥沢八丁目無源罪の四箇所が指定されています。

保護区は、長島氏個人所有の土地で大切に守られ、貴重な草花が数多く残されています。
春.秋の一般開放日は、年8回あります。
中央の池を水源に、烏山川に注ぐ川が流れていた記録があります。
現在は埋め立てられ、川跡は道路となり、烏山川も暗渠となり想像しがたいのですが、城山通りの中村橋と言う地名に、支流があった名残をとどめています。

 

経堂の大くぬぎと大榎公園

経堂の大くぬぎと大榎公園

 

長島大榎公園は、経堂五丁目の特別保護区の真迎えにあり、昭和37年に長島壮行氏の提供によって開園されました。

名前の由来となった大榎は、昭和40年で樹齢400年たつ巨木でしたが、昭和44年の台風で木が裂けてしまい、そこから腐り始めたので、その根元をレプリカとして現在に残しています。

その近隣に、大くぬぎがあります。
古代では、山や川、巨木や巨石などに神が宿ると、惧れと畏敬の念を抱き、自然崇拝の対象にしてきました。
この木を前に見上げると、神々しい「気」を感じます。

 

烏山 弁天池 (北烏山4-30)

烏山 弁天池 (北烏山4-30)

 

世田谷の特別保護区に指定されている弁天池は、北烏山の高源院にあります。
池中央に浮御堂が建てられ、弁財天を祀った事が名前の由来になっています。
冬には鴨が飛来するので、別名かも池とも呼ばれています。
夏にはスイレンや貴重なコウホネがきれいな花を咲かせます。
弁天池と井の頭公園の池とは地下水系でつながり、水位が同じ位置で、上下すると言われています。
また、船橋に流れていた烏山川(現烏山川緑道)の主な水源とされています。

 

釣鐘池 (祖師谷5-33)

釣鐘池 (祖師谷5-33)

 

現在の釣鐘池は、住宅地に囲まれ区立の公園になっています。
このあたりは標高45mの武蔵野台地で、記録によると昔は現在の倍の大きさがあり、森に囲まれ水量豊かな湧水池で、近くの仙川に注がれていました。
名前の由来は、「干ばつが続きで困った村人を救うため、寺の僧が釣鐘を抱いて身を沈めた」とする、言い伝えからですが、
昔は湧水池を水流ヶ根(つるがね)と言い、それが訛ったと言う説もあります。
世田谷百景の一つに選ばれています。

船橋にも多くの湧水池や水路があったのですが、現在はすべて埋め立てられてしまいました。
大きな池か河川に、船を浮かべ橋の代わりにした事が、船橋の名前の由来になったと言う説があります。